経理部二課の安田浩司は屋上へと向かっていた。
目的はひとつだ。
最上階の28階までエレベーターで昇り、
そこから階段で屋上まで上がる。
新人の時はよくここで息抜きをしていた。
人がいないので一人になれるのだ。
昼休みに会社の女の子たちとバレーボールをした事もあった。
昔からあまり運動しない方だったので
Yシャツまで汗びっしょりになった。
しかし今日は息抜きをしにきたのでも、バレーボールをしにきたのでもない。
死ぬために来たのだ。
最初は軽い気持ちだった。
特に暮らしが貧しかったわけでもない。
毎日パソコンをいじるだけの仕事で
変化が欲しかったのかもしれない。
ほんの少し、データを変えるだけで
架空の口座に金が振り込まれ、会社の金は自分のものとなった。
少額の金だが、いつもと違う緊張感があった。
それから数日間、いつ上司に呼ばれるかと思いながら過ごした。
しかし何事もなく一週間が過ぎた。
またいつものように変化のない毎日が続いた。
そして再び経理のデータをいじった。
前よりも少し金額を増やして。
そんな事を繰り返すうち、かなりの金を使い込んだ。
しかし、来週、経費削減のために
一度すべての経理データを見直す事になった。
一斉にチェックするのだ。
横領の事実は間違いなく発覚する。
とても言い逃れできない額だ。
懲戒免職。そして逮捕。終わりだ。
結婚もしていない。
たいした才能もない。
この不況の中でやり直すのはとても無理だ。
私には、もう死しか残されていなかった。
そして屋上へと上がってきたのだ。
しばらく宙を舞って、それで終わりだ。
今のままよりずっと楽になれる。
屋上をぐるりと囲んでいる手すりを乗り越え、
その向こうの一段高くなった所に立つ。
肝心なのは最初だけだ。
ほんの勇気を出すだけで、あとは何もしなくてもいい。
恐怖なのか緊張なのか、それとも期待なのかはわからないが
何か胸の鼓動が早くなる。
決心の時だ。
これですべてが終わる。
かかとを上げようとしたその時、
ふと近くに気配を感じて、右を向いた。
そこには、同じように手すりの外側の一段高くなった部分に男が立っていた。
向こうもこちらに気づいたようだ。
「あ、ああ。えーと……」
戸惑いながらも話しかけてきた。
すぐに、名前を聞きたいのだとわかった。
「経理の、安田です」
「安田さん、ですか。私……営業部の工藤です」
ともに、妙な場所に立ちながら名前を言い合う。
初めての会う者に名乗ってしまうのは
サラリーマンの性(さが)か。
「あなたもですか……」
私は工藤に向かって言った。
誰がどう見ても飛び降りようとしている。
工藤も、そして私も。
「ええ…。浮気がバレましてね。妻は家を出て行きました」
工藤は軽く空を見上げ、遠くを見て言った。
そして足元に視線を落とすと、言葉を続けた。
「部長に紹介されて結婚したもので、部長の顔にも泥を塗ってしまって…。
社内でももう立場がありません。
出世の見込みもありません。もう何も残らないんです」
「そんな事で死のうと?」そう言おうとして安田は言葉を飲み込んだ。
これから死のうと思っている自分が言える事ではない。
さらに工藤が話し続ける。
「僕は昔から何ひとつ取り柄がありませんでした。
やっと結婚できて、しかも部長の紹介ですから、
仕事の方もうまく行きそうでして」
そこまで話すと工藤は安田の方に顔を向けた。
「でも愛情のない結婚でした。そして、魔が差したんですね。
優しくしてくれた女性とつい……」
彼もずいぶんと悩んだのだろう。
死を選ぶには普通じゃない覚悟がいるはずだ。
「私は会社の金を使い込みましてね。
もう駄目なんです」
こちらも工藤に自分の事情を簡単に説明した。
「いいじゃないか。二人とも」
後ろから、そう声が聞こえた。
二人が振り向くと、そこにはトレーナーを着た、やや老けた感じの男がいた。
「俺は金にも女にも縁がなくてな。
何にもなかったんだ。何をやってもうまくいかないんだ」
「死のうと思ってな。薬とか手首切ったりとか
いろいろやったんだ。
でもそれもうまくいかなくてな。
死ぬ事すらうまくできなかったんだ」
「まあ、ここから飛び降りれば、
間違いなく死ねるんじゃないかって思ってな」
「じゃ、そろそろ」
「お先にどうぞ」
「いえ、どうぞ」
「いや、私はあとでいいんで」
「じゃ、そちらから」
「いや、俺もあとでいいよ」
「じゃ、せーの、で行きますか」
「そうだな」
「一斉に飛びますか」
「じゃ、行きますよ」
「せーの!」
しかし、誰も飛び降りなかった。
「あ、いや、ちょっと足が」
「すみません、タイミングがつかめなくて……」
妙な沈黙が流れる。
死の直前だというのに、誰かと話したことによって落ち着きが生まれた。
「じゃ、明日にしませんか?」
「そうだな」
「明日にしよう」
「じゃ、明日の昼2時にここで」
「わかった」
「わかりました」